八幡神社(はちまんじんじゃ:北寺町)

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概要・由来

当社の創建は不詳なれど、長享年間の一揆の為に社殿が廃絶したが、天正15年8月再建すと伝う。
【神社庁由緒】

境内地
179坪(592平方米) 他に雑種地一筆36坪(120平方米)
宮司
第二十三代須岐神社宮司 木嶋千加良

由緒沿革
当社の創建は不詳で有るが長亨2年(西暦1488年 今から510年前)一揆の為に社殿悉く灰燼に帰し廃絶した。
百年後の天正15年8月、新たに再建された社殿が現在の拝殿で有ります。

本殿の由緒
明治元年北越後に出征、戦死された金沢藩士卒の霊を時の藩知事で有りました前田慶寧公が建立された旧卯辰山鎮座官祭招魂社に祭祀、其の後昭和10年出羽町に新たに石川護固神社、社殿の御造営が成り御遷座された事により旧本殿は、北寺町八幡神社、社掌木嶋喜千造氏並びに氏子総代、拳つて県当局への再三熱烈なる御下賜方懇請により昭和10年8月30日御遷座祭を執行、爾来63年由緒深き本殿として今日に至るものである。
今茲に産土神社の由来を記し、往古、先人の労を偲び永く後世に伝えるべく謹書、奉納するものです。
平成10年9月 本田理衛
【境内由緒】

金沢市北寺町に鎮座する八幡神社は、創建の年月は定かではありませんが、長い歴史を持つ古社です。
その歴史を紐解くと、戦乱による焼失と再建、そして本殿の移築という、波乱に満ちた経緯が見えてきます。

創建と中世の動乱

神社の創建時期は残念ながら不明です。
しかし、室町時代後期の長享2年(1488年)、この地を襲った一揆によって社殿はことごとく焼失し、一時的に廃絶してしまったと伝えられています。当時の社会情勢は不安定で、各地で農民などが蜂起する一揆が頻発していました。
北寺町の八幡神社も、その時代の波に飲み込まれたのです。

復興と近世の歩み

それから約100年の時を経て、安土桃山時代の天正15年(1587年)8月、社殿は再建されました。
この時に再建された社殿が、現在の拝殿であるとされています。
戦乱によって失われた社殿が、人々の手によって再び建てられたことは、地域の人々にとって大きな喜びであったことでしょう。

本殿の数奇な運命

特筆すべきは、現在の本殿です。
この本殿は、もともと別の場所に建てられたものでした。
明治元年(1868年)の戊辰戦争において、北越後に出征し戦死した金沢藩の藩士たちの霊を慰めるため、当時の藩知事であった前田慶寧公が卯辰山に「官祭招魂社」を建立しました。
この官祭招魂社こそ、現在の八幡神社の本殿の前身なのです。

その後、時代は移り、昭和10年(1935年)になると、出羽町に新たに「石川護国神社」が創建されることになりました。
これに伴い、卯辰山の官祭招魂社に祀られていた戦没者の霊は、新しく建てられた石川護国神社へと移されました。

役目を終えた官祭招魂社の旧本殿は、取り壊されることなく、北寺町八幡神社の関係者、具体的には当時の社掌であった木嶋喜千造氏や氏子総代らが、県当局に何度も熱心に請願しました。
その結果、昭和10年8月30日、旧官祭招魂社の本殿は北寺町八幡神社へと移築され、現在に至るまで八幡神社の本殿として大切に祀られています。
戊辰戦争の戦没者を祀るために建てられた建物が、時を経て地域の氏神様を祀る社殿として新たな役割を担うことになったのは、歴史の巡り合わせと言えるでしょう。

境内と宮司

現在の境内地は約592平方メートル、他に雑種地が約120平方メートルあります。
宮司は、第二十三代須岐神社宮司の木嶋千加良氏が兼務されています。

由緒の記録

この由緒は、平成10年(1998年)に本田理衛氏によって記録され、後世に伝えられることとなりました。

このように、北寺町八幡神社は、創建以来、様々な歴史の変遷を経て現在に至っています。
特に、本殿が辿った数奇な運命は、この神社の歴史を語る上で欠かせない要素と言えるでしょう。

鎮座地

金沢市北寺町ロ50

電話

076-238-2068 (須岐神社)

拝観料金

無料

御祭神

大鷦鷯皇命・誉田別皇命・気長帯姫命・比咩大神

行事

見どころ

きれいに整備された境内
北寺八幡神社の横には浅野川が流れており、秋からはススキが美しい光景が見られます。

神徳(御利益)

八幡神社は全国に数多くありますが、その多くは誉田別皇命、すなわち応神天皇(おうじんてんのう)を主祭神としています。
北寺町八幡神社もその例に倣い、応神天皇を祀っていますが、他の神様も併せて祀っているのが特徴です。

誉田別皇命(ほんだわけのみこと)/ 応神天皇(おうじんてんのう)

  • 武運長久、勝利の神: 応神天皇は武勇に優れた天皇として知られ、武神として信仰されています。そのため、戦の勝利、武運長久、勝負事の成功などを祈願する際に信仰を集めます。
  • 殖産興業の神: 応神天皇の時代は文化や産業が発展したとされ、殖産興業、産業振興の神としても信仰されています。
  • 厄除開運の神: 武運長久と結びつき、厄除開運の神としても広く信仰されています。
  • 子育ての神: 応神天皇の母である神功皇后(気長帯姫命)との関係から、子育て、安産のご利益もあるとされています。

大鷦鷯皇命(おおさざきのみこと)/ 仁徳天皇(にんとくてんのう)

  • 民を思う慈悲深い天皇: 仁徳天皇は、民の生活を第一に考えた慈悲深い天皇として知られています。民のかまどの煙を見て民の生活の困窮を察知し、税を免除したという逸話は有名です。
  • 殖産興業、農業の神: 仁徳天皇の時代には治水事業や灌漑事業が盛んに行われたとされ、殖産興業、農業の神としても信仰されています。特に水利、治水のご利益があるとされています。
  • 福徳円満の神: 民を大切にしたことから、福徳円満、生活の安定のご利益があるとされています。

気長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)/ 神功皇后(じんぐうこうごう)

  • 安産、子育ての神: 神功皇后は応神天皇の母であり、身重の身で戦を指揮したという伝説から、安産、子育ての神として広く信仰されています。
  • 勝利の神: 三韓征伐の伝説から、勝利の神としても信仰されています。
  • 開運招福の神: 強運の持ち主として、開運招福のご利益があるとされています。

比咩大神(ひめおおかみ)

  • 宗像三女神(むなかたさんじょしん)とされる場合が多い: 比咩大神は、宗像三女神(多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比売命(たぎつひめのみこと))の総称、またはそのうちの一柱とされることが多いです。
  • 海の神、交通安全の神: 宗像三女神は海の神として知られ、航海安全、交通安全のご利益があるとされています。
  • 縁結びの神: 美しい女神であることから、縁結びのご利益もあるとされています。

北寺町八幡神社における神徳:

これらの神様が共に祀られている北寺町八幡神社では、上記の神徳が合わさった形で信仰されています。
特に、

  • 武運長久、勝利祈願: 応神天皇のご利益
  • 殖産興業、商売繁盛: 応神天皇、仁徳天皇のご利益
  • 安産、子育て: 神功皇后のご利益
  • 厄除開運: 応神天皇のご利益
  • 交通安全: 比咩大神(宗像三女神)のご利益
  • 福徳円満: 仁徳天皇のご利益

などが主な神徳と言えるでしょう。

これらの神徳は、地域の人々の生活、特に武士や商人の信仰を集めてきたと考えられます。
現在でも、勝負事の成功、商売繁盛、家内安全、安産などを祈願する人々が訪れています。

駐車場・アクセス

・駐車場はありません
・北陸鉄道浅野川線 三ツ屋駅から徒歩2分
・問屋二丁目バス停から徒歩11分
・大浦バス停から徒歩12分

授与品・御朱印

須岐神社にお問合せ

ウェブサイト

石川県神社庁
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0320/

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