満願寺山 九萬坊大権現

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概要・由来

金沢市窪の満願寺山にある九萬坊大権現について、現時点で判明している情報に基づき、解説いたします。
ただし、九萬坊大権現は伝承や伝説が多く、歴史的に完全に確定されている事柄は少ないことを予めご了承ください。

満願寺山と九萬坊大権現の概要

満願寺山(まんがんじやま)は、金沢市窪一丁目にある標高176.6mの山です。
山麓から山腹にかけて住宅地が広がっており、山頂付近には九萬坊大権現(くまんぼうだいごんげん)が祀られています。
九萬坊大権現は天狗を祀る神社として知られ、地元の人々から信仰を集めています。

九萬坊大権現の由来と伝承

九萬坊大権現の由来については、いくつかの説が存在し、明確な史料が少ないため、正確な起源を特定するのは困難です。
以下に代表的な伝承をいくつかご紹介します。

① 前田利家による封じ込め説

加賀藩祖の前田利家が金沢城に入城する際、城の鬼門除けとして、あるいは織田信長に滅ぼされた一向一揆の怨霊を鎮めるために、九萬坊を現在の黒壁山(くろかべやま)の奥地に封じ込めたという伝承があります。
この伝承では、九萬坊は元々金沢城のある場所に勢力を持っていたとされています。

② 山岳信仰との習合説

満願寺山は古くから山岳信仰の地であり、九萬坊の他に八萬坊、照若坊という天狗も祀られていました。
これらの天狗は、それぞれ薬師如来、不動明王、十一面観音といった仏と習合し、信仰の対象となっていたと考えられています。
この説では、九萬坊は山岳信仰の中で生まれた神格であるとされています。

③ 泰澄上人との関連説

白山を開山したとされる泰澄上人が、黒壁山で修行中に九萬坊と出会ったという伝承もあります。
この伝承では、九萬坊は泰澄上人の霊力に感化され、人々に利益をもたらす存在になったとされています。

これらの伝承は、九萬坊大権現が様々な信仰や伝承が習合して成立した存在(神仏習合)であることを示唆しています。

九萬坊大権現と金沢城

前述の通り、前田利家が九萬坊を封じ込めたという伝承から、九萬坊は金沢城と深い関係があるとされています。
金沢城では、天守や御殿が度重なる火災に見舞われたことから、これは九萬坊の祟りであるという噂が広まりました。
そのため、前田家は九萬坊を畏れ敬い、城内やゆかりの寺院で九萬坊を祀るようになったと言われています。

九萬坊大権現の現状

明治時代の廃仏毀釈の影響で、九萬坊大権現の祠は一時破却されましたが、その後再建されました。
現在では、黒壁山薬王寺(くろかべさんやくおうじ)によって管理されており、地元の人々や参拝者によって大切に守られています。

九萬坊大権現は、様々な伝承や信仰が入り混じった神秘的な存在です。
歴史的に明確にされている事柄は少ないものの、その存在は金沢の歴史や文化に深く根付いています。
満願寺山を訪れる際は、これらの伝承に思いを馳せながら、自然豊かな景色と静寂な空間を楽しんでいただければと思います。

神社なのか寺院なのか?

これは少し複雑な問題で、明確にどちらか一方と断言することが難しい状況です。

現在の満願寺山にある九萬坊大権現は、一般的には神社として認識されています。
鳥居があり、神社の形態をとっているからです。
しかし、その歴史や伝承を紐解いていくと、寺院的な要素も色濃く残っていることが分かります。

歴史と伝承から見る九萬坊大権現

神仏習合の名残

九萬坊大権現は、神仏習合の思想の影響を強く受けています。
神仏習合とは、日本の神道と仏教が融合した思想で、神と仏は本来一体であるという考え方です。

九萬坊大権現の場合、九萬坊、八萬坊、照若坊という天狗が、それぞれ薬師如来、不動明王、十一面観音といった仏と習合している点が、その典型的な例と言えます。

泰澄上人との関わり

白山を開山したとされる泰澄上人が、九萬坊と出会ったという伝承も、寺院的な要素を示唆しています。
泰澄上人は仏教の僧侶であり、修験道の祖ともされています。

薬王寺との関係

現在、九萬坊大権現は黒壁山薬王寺という寺院によって管理されています。
これは、九萬坊大権現が寺院と深い関わりを持っていることを示しています。

九万坊寺の存在

かつて、九萬坊寺という寺院が存在し、九萬坊大権現が祀られていたという記録もあります。
このことからも、九萬坊大権現は寺院的な側面も持っていたと考えられます。

結論

上記のように、九萬坊大権現は神社的な要素と寺院的な要素の両方を持ち合わせています。
歴史的に見ると、神仏習合の影響を受け、寺院的な側面が強かった時期もあったと考えられますが、現在の形態は神社となっています。

そのため、九萬坊大権現を神社と捉えるか寺院と捉えるかは、それぞれの解釈に委ねられる部分もありますが、現状としては神社として認識するのが一般的と言えるでしょう。

補足

* 神仏習合は、明治時代の神仏分離令によって廃止されましたが、その影響は現在でも各地に残っています。
* 九萬坊大権現のように、神社と寺院の両方の要素を持つ場所は、他にもいくつか存在します。

* 九萬坊大権現に関する情報は、地域に伝わる伝承や言い伝えに基づいている部分が多く、史実と異なる可能性があります。
* 近年、満願寺山周辺でクマの目撃情報があるため、訪問の際は十分にご注意ください。

鎮座地

〒921-8151
石川県金沢市窪1丁目74

電話

電話番号は確認できませんでした。

拝観料金

拝観料金は無料です。

御祭神

* 九万坊大権現(薬師如来)
* 八万坊大権現(不動明王)
* 照若坊大権現(十一面観音)

行事

例祭などが行われている可能性があります。
詳細については、直接お問い合わせください。

見どころ

* 急な階段を登った先にある社殿:

参道には階段が多く、特に奥の院までの階段はかなりの段数があります。
足腰に自信のある方は挑戦してみるのも良いでしょう。
この石段で各学校(泉ヶ丘高校や錦ヶ丘高校など)運動部のトレーニング場になっていた事も。

* 天狗のお面:

拝殿や軒下には天狗のお面が飾られています。
拝殿裏手に廻ると本殿があります。

小立野の「天徳院」の境内に掛けられている天狗のお面は、九萬坊のお面だそうです。

* 奥の院:

さらに奥には奥の院があり、静かで神聖な雰囲気を味わえます。
奥の院へと続く階段の入り口には「冨樫大明神」と刻まれた石碑があります。

* 満願寺山の自然:

周囲は自然に囲まれており、四季折々の風景を楽しめます。

神徳(御利益)

九萬坊大権現は伝承や信仰が中心であり、明確に文献等で定められているご利益は少ないため、あくまで一般的に考えられるもの、および地域で伝えられているものとなりますことをご承知おきください。

九萬坊大権現の神徳(ご利益)として考えられるもの

魔除け・厄除け:
九萬坊大権現は、前田利家によって「魔」を封じ込めたという伝承から、強力な魔除け・厄除けの力を持つと信じられています。
特に、金沢城の鬼門除けとして祀られたという話から、方角や災厄からの守護にご利益があるとされています。

火伏せ:
金沢城が度重なる火災に見舞われたことから、九萬坊の祟りであるという伝承が生まれました。
逆に言えば、火災を防ぐ力、つまり火伏せのご利益があると解釈することもできます。

武運長久:
九萬坊大権現は、武士からの信仰も集めていたと言われています。
祠の前で剣術の修行や刀の祓いをしたという話から、武運長久、武道成就のご利益があるとされています。

商売繁盛:
天狗は山岳信仰と結びつき、山は富の象徴とも考えられていたことから、商売繁盛のご利益があるとされています。
また、九萬坊大権現を祀る薬王寺も商売繁盛のご利益で知られています。

病気平癒:
九萬坊大権現の祠には霊水があり、病気平癒に効果があると信じられていました。
そのため、病気からの回復や健康祈願のご利益があるとされています。

心願成就:
強力な霊力を持つとされる九萬坊大権現は、人々の様々な願いを叶える力を持つと信じられています。
そのため、心願成就全般にご利益があるとされています。

地域で伝えられるご利益

開運招福: 九萬坊大権現は、地域によっては開運招福のご利益があると伝えられています。

五穀豊穣: 山の神、天狗信仰と結びつき、五穀豊穣のご利益があるとされる場合もあります。

駐車場・アクセス

* 駐車場:鳥居前に駐車場10台程あります。
* アクセス:北鉄バス:31額住宅線[金沢~下森島]下森島行、窪バス停から徒歩12分

授与品・御朱印

御朱印あり。
参拝時に確認するか、事前に問い合わせることをお勧めします。

ウェブサイト

公式ウェブサイトはありません。

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満願寺山遺跡について

満願寺山遺跡(まんがんじやまいせき)は、金沢市窪一丁目に位置する標高176.6mの満願寺山の山頂部を中心とした複合遺跡。
平野部に面したお椀を伏せたような外観の山で、山麓から山腹にかけては住宅地が広がっています。

この遺跡は、高地性集落、台状墓、砦跡など、複数の時代の遺構が複合していると考えられており、特に弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墓域の変遷を知る上で重要な遺跡として注目されています。

満願寺山遺跡の特徴

  • 高地性集落: 山頂という高所に位置することから、敵の侵入を防ぎやすいという利点があり、古代の人々が生活を営んでいた集落があったと考えられています。
  • 台状墓: 山頂部とその北東に延びる尾根上には、約3基の方形台状墓群と考えられる遺構が確認されています。
    これらの墓は、方形または前方後方形のような形状をしており、当時の埋葬方法や社会構造を知る手がかりとなっています。特に1号墳は方形とも前方後方形ともとれる形状である点が特徴です。
  • 砦跡: 山頂という立地から、軍事的な拠点、つまり砦としても利用された可能性が指摘されています。

満願寺山古墳群

満願寺山遺跡の中でも特に注目されるのが、山頂に位置する3基の方墳からなる古墳群です。

  • 1号墳・2号墳: 高所に位置する1号墳と2号墳は、合わせて前方後方墳と見る説もあります。その場合、全長23m、高さ1.5mの規模を持ち、長坂二子塚古墳と同様に墳頂からの眺望が素晴らしいとされています。
  • 最古の前方後円墳の可能性: 2号墳は形が変形していますが、金沢平野で最古の前方後円墳である可能性も指摘されています。

これらの古墳群は、弥生時代から古墳時代へと転換する時期に墓域を形成する遺跡として注目されており、その時期は5世紀前葉と推定されています。

満願寺という寺院について

満願寺山という名前ですが、現在付近には満願寺という寺院はありません。
かつて存在した可能性もありますが、詳細は不明です。

高尾城址の概要

高尾城址(たかおじょうし)は、金沢市高尾町に位置する山城跡です。
満願寺山からは比較的近い場所にあります。
かつて加賀国の守護であった富樫氏の居城でしたが、長享2年(1488年)の一向一揆によって落城し、富樫氏は滅亡しました。
この出来事は、加賀が「百姓の持ちたる国」と呼ばれるようになるきっかけとなりました。

高尾城の歴史

  • 築城時期: 高尾城の築城年代は定かではありませんが、長享2年(1488年)以前に富樫氏によって築かれたと考えられています。
  • 富樫氏と一向一揆: 当時、加賀国の守護であった富樫政親(とがしまさちか)は、勢力を拡大する一向一揆に対して危機感を抱いていました。政親は将軍足利義尚に支援を要請し、一向一揆に対抗しようとしましたが、一揆勢に攻められ、高尾城に籠城しました。
  • 落城と富樫氏の滅亡: 長享2年(1488年)、一向一揆勢の猛攻により高尾城は落城し、富樫政親は自害しました。
    これにより、加賀は一向宗の支配下に入り、以後約100年にわたり、守護大名が存在しない「百姓の持ちたる国」と呼ばれる時代を迎えます。

高尾城址の現状

現在、高尾城の遺構は大部分が失われていますが、一部に土塁や堀の跡が残っています。
また、高尾城址には見晴らし台が整備されており、金沢市街を一望できる絶景スポットとなっています。

高尾城址の見どころ

  • 高尾城址見晴らし台: 金沢市街を一望できる絶景スポットです。特に夕焼け時は美しい景色を楽しめます。
  • 城跡の遺構: 一部残る土塁や堀の跡から、往時の城の様子を偲ぶことができます。
  • 歴史を感じる場所: 富樫氏の滅亡という歴史的な出来事の舞台となった場所であり、歴史好きにはたまらない場所です。

高尾城址へのアクセス

  • 車: 石川県教員総合研修センターを目印にすると分かりやすいです。研修センターの駐車場を利用できます。
  • 徒歩: 研修センターから登り口があり、約300段の階段を登ると見晴らし台に到着します。階段はやや急なので、歩きやすい靴で行くことをお勧めします。

満願寺山との関係

満願寺山と高尾城址は比較的近い場所に位置しており、歴史的にも関連があると考えられます。
富樫氏が滅亡した後、この地域は一向宗の影響下に入りましたが、その後、前田利家によって再び統治されることになります。
九萬坊大権現の伝承には、前田利家が一向一揆の怨霊を鎮めるために九萬坊を封じ込めたという話があり、この地域一帯の歴史的な流れを考える上で、両者は重要な関係性を持っていると言えるでしょう。

高尾城址は、富樫氏の滅亡と加賀が「百姓の持ちたる国」となるという歴史的な転換点となった場所です。
見晴らし台からの眺望も素晴らしく、歴史と景観の両方を楽しめるスポット。
満願寺山と合わせて訪れることで、この地域の歴史をより深く理解することができるでしょう。

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