徳川家康公|金沢城内に鎮座した「北陸の日光」と東照大権現の教え

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1. 【御利益】

  • 国家安穏・社会の安定 (天下太平を成し遂げたことから、組織や家庭の調和、平和を維持する力があるとされます)
  • 病気平癒・延命長寿 (家康公自身が薬学に詳しく、養生に努めたことから健康祈願の対象となっています)
  • 大願成就・勝負運 (長い忍耐の末に天下を握った歴史から、逆境を跳ね返す成功運を授けます)

2. 【概要と由来】

徳川家康公(1543年〜1616年)は、戦乱の世を終わらせ、約260年続く江戸幕府の礎を築いた初代征夷大将軍です。
幼少期に今川家や織田家での人質生活を送るという過酷な運命を辿りながらも、揺るぎない忍耐と知略で道を切り拓きました。

死後、公は「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」という神号を贈られ、神として祀られるようになりました。
それは単なる個人崇拝ではなく、末永く日本を平和な国(浄土)として見守り続けるという、公の強い意志に基づいたものです。
現在は日光東照宮や久能山東照宮をはじめ、全国の東照宮で「平和と安定の守護神」として敬われています。


3. 【詳細解説】

別名・別称

東照大権現(とうしょうだいごんげん)、神君(しんくん)

特徴・シンボル

三つ葉葵の家紋、鷹狩りの装束、薬箱(薬草に詳しかったため)

徳川家康公の精神:厭離穢土 欣求浄土

家康公が19歳の頃、桶狭間の戦いの混乱の中で出会った言葉に「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」があります。
本来は「汚れた現世を離れ、極楽浄土を求める」という仏教用語ですが、公はこの言葉を「戦乱のこの世(穢土)を、平和な世界(浄土)に作り変える」という強い決意として捉え直し、生涯の旗印としました。

慈悲の教え

家康公は、「慈悲の過ぎたるは刻薄に劣る」という言葉を残しています。
これは、相手を思うあまりに過剰な心配をしたり、手助けをしすぎたりすることは、かえって相手の自立を妨げ、害になってしまうという戒めです。良かれと思ってするお節介を止め、相手を信じて見守る勇気こそが、本当の意味での深い愛情であることを説いています。

神としての歩み

家康公は自らの死後、久能山に葬られ、後に日光へ遷されることを望みました。
これは、江戸の真北に位置する日光から「北極星」のごとく動かぬ神となり、徳川の世と日本全体の安泰を永遠に見守り続けるためでした。


4. 【金沢での関連寺社・スポット】

金沢において徳川家康公を深く感じる場所として欠かせないのが、丸の内にある「尾﨑神社(おさきじんじゃ)」です。

尾﨑神社(金沢東照宮)

加賀藩四代藩主・前田光高公が、寛永20年(1643年)に曽祖父である徳川家康公を祀るために金沢城内の北の丸に建立しました。

  • 特徴: 朱塗りの美しい社殿には、家康公の象徴である「三つ葉葵」の紋が随所に施されています。その豪華な装飾から「北陸の日光」や「金沢城の江戸」とも称されてきました。
  • 接点: 光高公の母は、徳川二代将軍・秀忠公の娘である珠姫(たまひめ)です。この強力な縁戚関係が、加賀藩と幕府の絆を象徴するこの神社の創建へとつながりました。
  • サイト内関連記事: 尾﨑神社(おさきじんじゃ) – 金沢 寺社仏閣めぐり ( https://kanazawa-jisha.com/osaki/
尾﨑神社(おさきじんじゃ)

全国の関連寺社


【編集後記】

家康公といえば「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という句に象徴される「忍耐の人」のイメージが強いですが、今回ご紹介した「慈悲が過ぎるのも良くない」という言葉からは、リーダーとしての冷徹なまでの客観性と、人を育てるための深い洞察力が感じられます。

「慈悲の過ぎたるは刻薄に劣る」という言葉も、私にはとてもお節介な家族がいるのですごく突き刺さりました。笑
家康公のこの言葉を伝えて、相手を信じて見守る勇気を持ってほしいです!

金沢の尾﨑神社を訪れると、その鮮やかな朱色と葵の紋に、当時の加賀藩が徳川家をいかに重んじていたかが伝わってきます。現代の私たちにとっても、困難な状況で「動かぬ北極星」のように自分を律する家康公の精神は、大きな励みになるのではないでしょうか。

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