歴史・概要
浄土宗の寺院で、山号は宝池山。
前田利家の四女で宇喜多秀家の正室であった豪姫の位牌所・菩提寺として知られる。
大蓮寺は、慶長9年(1604年)に加賀藩祖前田利家に仕えた荒子七人衆の一人、小塚淡路守秀正が金沢城に入城した後、七尾の浄土宗西光寺住職であった衍連社広誉怒白上人を招請し、御馬屋町(現:柿木畠)に建立された。
しかし、後に当地が御用地になったため、野町に替地を拝領して現在に至る。
野田山にある豪姫の五輪塔の墓を今も守り、豪姫の位牌と念持仏である聖観音を寺宝として安置する。
境内には豪姫と夫・宇喜多秀家の供養塔をはじめ茶商・堂後屋、儒者・藤田維正などの墓がある。
慶長9年(1604年)に小塚淡路守秀正が創建し、現在の本堂は文化12年(1815年)に再建。
1994年(平成6年)に西正門前に豪姫のレリーフを開眼し、翌年に豪姫の三百六十回忌法要を実施した。
所在地
石川県金沢市野町2丁目1-14
電話
076-241-7823
拝観料金
境内は無料。建物内は要予約。
拝観時間
午前9時30分 〜 16時30分
正⽉・お盆期間は開閉⾨時間が異なります。
宗派/山号・寺号
浄土宗/宝池山功徳院/大蓮寺
本尊・寺宝
本尊:阿弥陀如来
寺宝:豪姫の位牌、聖観音像
御朱印
有り(事前連絡必要)
御朱印帳は無し
行事
修正会(しゅしょうえ)・・・正月に修する法要
涅槃会 (ねはんえ)・・・お釈迦さまが亡くなった忌日の法要
彼岸(ひがん)・・・極楽へのあこがれを起こす日
法然上人御忌会(ほうねんしょうにんぎょきえ)・・・宗祖・法然上人の亡くなった忌日、お徳をたたえる法要
豪姫命日法要(ごうひめめいにちほうよう)・・・豪姫が亡くなった忌日の法要
施餓鬼会(えがきえ) ・・・先亡を供養する法要
お盆(ぼん)・・・ご先祖さまをおまつりする日
地蔵盆(じぞうぼん)・・・地蔵菩薩の祭
彼岸(ひがん)・・・極楽へのあこがれを起こす日
十夜法要(じゅうやほうよう)・・・南無阿弥陀仏の、み名を称えて善根を積む法要
見どころ
・宇喜多家の家紋を中心に中村家や一色家など豪姫に従った家臣の紋が周りを取り巻いている本堂の格天井
・豪姫と宇喜多秀家の供養塔
・豪姫のレリーフ
・茶商・堂後屋、儒者・藤田維正などの墓
・お隣の神社・神明宮の樹齢1000年超の大ケヤキと並ぶケヤキ2本(金沢市指定保存樹)
駐車場・アクセス
駐車場:大蓮寺の正⾯にあり、⾞20台ほどのスペース
アクセス:公共交通機関で城下まち金沢周遊バス・北陸鉄道路線バス「広小路」バス停から徒歩約2分、金沢ふらっとバス長町ルート「にし茶屋街」バス停から徒歩約1分
ウェブサイト
豪姫(ごうひめ)とは
戦国時代から江戸時代初期にかけての女性で、以下のような経歴を持っています。
– 前田利家の四女として尾張国荒子に生まれる。
– 数え二歳のときに豊臣秀吉の養女となり、太閤秘蔵の子として寵愛される。
– 天正16年(1588年)以前に秀吉の猶子である備前国岡山城主・宇喜多秀家の正室として嫁ぐ。
– 宇喜多秀高・秀継・理松院らを産む。
– 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属した秀家が改易され、八丈島に流罪となる。
– 豪姫は加賀藩に移り、化粧料として1500石を受ける。
(1500石を今のお金に換算する方法は複数あるが換算方法によって結果は大きく異なります)
・米の値段で換算すると67.5億円~22.5億円
・職人の賃金で換算すると69億円
・現代感覚で換算すると45億円
– 八丈島の秀家へ仕送りを続けるが、再会することなく寛永11年(1634年)に金沢城鶴の丸で死去する。
– 享年61。葬儀は宇喜多氏の菩提寺、家臣であった中村刑部・一色主膳ら多くの有縁の方によって浄土宗大蓮寺で行われた。
– 法名は樹正院殿命室寿晃大禅定尼。墓所は野田山墓地や大蓮寺などにある。
*経歴
– 生年:天正2年(1574年)
– 出生地:尾張国荒子(現・愛知県名古屋市中川区)
– 父:前田利家
– 母:まつ(芳春院)
– 養父:豊臣秀吉
– 夫:宇喜多秀家
– 子:宇喜多秀高・秀継・理松院ら
– 死年:寛永11年5月23日(1634年6月18日)
– 死去地:金沢城鶴の丸
– 戒名:樹正院殿命室寿晃大禅定尼
– 墓所:野田山墓地・大蓮寺・高野山奥之院など
年号 | 年齢 | 出来事 |
天正2年 1574年 |
0歳 | 尾張国荒子で前田利家とまつの四女として誕生。 |
天正4年 1576年 |
2歳 | 豊臣秀吉と寧々の養女になる。 |
天正15年 1587年 |
13歳 | 3月 岡山城主・宇喜多秀家の正室になる。 |
天正19年 1591年 |
17歳 | 長男・宇喜多秀高を出産。 |
文禄4年 1595年 |
21歳 | 夏以降、病に倒れ、狐(きつね)に憑かれたとされる。 |
慶長3年 1598年 |
24歳 | 次男・宇喜多秀継を出産。 8月18日 豊臣秀吉 没 63歳 醍醐の花見(3月15日) |
慶長4年 1599年 |
25歳 | 3月3日 前田利家 大坂の自邸で病没 62歳 |
慶長5年 1600年 |
26歳 | 関ヶ原の戦いで夫・秀家が西軍に属し、敗北。大坂の備前屋敷で夫と別れる。 |
慶長6年 1601年 |
28歳 | 前田家の加賀へ移り、金沢西町に住む。 |
慶長11年 1606年 |
32歳 | 夫・秀家(34歳)と息子2人(秀隆15歳、秀継9歳)が八丈島へ流罪。 |
慶長12年 1607年 |
33歳 | この頃キリシタンとなり洗礼名マリアを受けたとされる。 (キリシタンではなかったという説もあり) |
元和元年 1615年 |
41歳 | 生前葬を営む。和歌山 高野山奥之院の豊臣家墓所に墓を建てる。 10月8日 長女 貞(理松院)没 (墓地:妙泰寺) |
寛永11年 1634年 |
61歳 | 5月23日 金沢城鶴の丸で逝去。 |
平成6年 1944年 |
大蓮寺 | 西門 豪姫レリーフ開眼 |
平成7年 1995年 |
大蓮寺 | 豪姫360回忌法要 秀家・豪姫供養塔開眼 |
平成9年 1997年 |
八丈島 | 12月 秀家・豪姫記念石像除幕 |
*豪姫に関する作品*
映画
– 『豪姫』(1992年、松竹、原作:富士正晴、監督:勅使河原宏、豪姫:宮沢りえ)
小説
– 富士正晴『たんぽぽの歌』(河出書房新社、1961年)のちに『豪姫』(新潮文庫、1991年)に改題
– 筆内幸子『豪姫さま 百万石の女人系』(北国新聞、1992年)
– 中村彰彦『豪姫夢幻』(角川書店、1999年)
テレビドラマ
– 『大坂城の女』(1970年、フジテレビ、豪姫:北林早苗)
– 『おんな太閤記』(1981年、NHK大河ドラマ、豪姫:金子曜子→高梨路子→岩崎良美)
– 『女たちの百万石』(1988年、日本テレビ、豪姫:浅野ゆう子)
– 『愛に燃える戦国の女』(1988年、TBS、豪姫:小川範子)
– 『豊臣秀吉 天下を獲る!』(1995年、テレビ東京、豪姫:根本宗子)
– 『姫将軍大あばれ』(1995年、テレビ東京、豪姫:上村香子)
– 『秀吉』(1996年、NHK大河ドラマ、豪姫:松尾恵理香→坂田麻衣子)
– 『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(2002年、NHK大河ドラマ、豪姫:梅澤美優→大田ななみ→斉藤千晃→須藤理彩)
– 『寧々〜おんな太閤記』(2009年、テレビ東京、豪姫:西本利久)
楽曲
– さくらゆき『砂の川』(作詞:小栗さくら、作曲:まついえつこ)
豪姫の流罪
豪姫が流罪になった理由は、夫の宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで西軍についたためです。
関ヶ原の戦い
– 慶長5年(1600年)に起こった天下分け目の合戦
– 豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立した
– 宇喜多秀家は豊臣家の恩義に報いるため西軍に加わった
– 西軍は東軍に敗れ、宇喜多氏は改易された
宇喜多秀家の流罪
– 秀家は薩摩に潜伏し島津氏に匿われた
– 慶長7年(1602年)、島津氏が徳川家康に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡された
– 慶長11年(1606年)、秀家は息子2人と共に八丈島へ流罪とされた
– 秀家は明暦元年(1655年)に八丈島で死去した
豪姫の運命
– 豪姫は関ヶ原の合戦後、娘2人を伴い、兄の前田利長を頼って金沢西町に移り住んだ
– 化粧料として1500石を受ける
– 夫や息子らとの再会を夢見ていたが、許されなかった
– 寛永11年(1634年)に金沢城で死去、享年61
加賀藩に仕えた荒子七人衆の一人小塚秀正が大蓮寺を創建
戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将で、加賀藩の初代藩主となった前田利家が金沢城に入るときに、自分に仕えていた七人の家臣の一人である小塚秀正が建てたお寺が大蓮寺です。
小塚秀正は、利家の命令で能登国(現在の石川県西部)の七尾城を攻めたことがあります。そのときに、七尾にあった浄土宗のお寺の僧である広誉怒白という僧侶と知り合いました。小塚秀正は、広誉怒白の教えに感銘を受けて、金沢に招いて自分のお寺の開祖としました。そのお寺が大蓮寺です。
小塚秀正は、前田利家と前田利長の二代にわたって加賀藩の政治・軍事に大きな影響力を持ち、慶長19年(1614年)から翌年にかけて起こった大坂冬・夏の陣では、加賀藩の本拠地である金沢城の城代を務め、藩内の防衛を担いました。
当初、大蓮寺は御馬屋町(現、木ノ新保町)という場所に建てられましたが、後に当地が前田家の御用地になった為、そこで、前田家から現在の場所を拝領し移転しました。
野町は、金沢市の中心部から近い場所にあり、ひがし茶屋街・主計町茶屋街と並ぶ金沢三茶屋街のひとつ「にし茶屋街」がある町です。
金沢市街ですが、大蓮寺は静寂な雰囲気の中にあります。
高い地位にあった小塚淡路守秀正
大蓮寺は、加賀藩の歴史に深く関わるお寺です。
創建当初から大きな力を持っていたのが、小塚淡路守秀正という人物。小塚家は、江戸時代初期に加賀藩が成立したときには、9,000石の大名でした。加賀八家という加賀藩の家老たちと同じくらいの地位にありました。小塚淡路守秀正は、前田利家や前田利長という二代の藩主に仕えて、大きな功績を残しました。特に前田利長が亡くなるときには、遺言状を受け取った20人のうちの一人でした。
慶長19年(1614年)から翌年にかけて起こった大坂の陣では、金沢城の城代として重要な役割を果たしました。
しかし、小塚家は不運にも子供たちが戦死したり早死にしたりして、主家も支家も全て絶えてしまいました。
その後、小塚家が大蓮寺を守ってきた役割を引き継いだのが石野家です。石野家は豊臣家とも縁があり、加賀藩では人持組と呼ばれる身分でした。人持組とは、加賀藩の中で上位の68家のことで、藩主や家老に次ぐ地位にありました。石野家は1,500石の大名でしたが、小塚家から大檀越(おおだんな)という役職を引き継ぎました。大檀越とは、お寺の中で一番大きな檀家のことで、お寺を支える責任者です。豪姫の供養塔の裏側にある大きな墓碑は、石野家の歴代の墓です。
入誉上人による大蓮寺本堂の再建
現在の大蓮寺の本堂は、1815年(文化12年:確かな時期ではありません)に類焼で焼失し、その年に再建されました。このとき、大蓮寺の住職だったのは、走連社入誉上人という人物でした。入誉上人は、もともとは如来寺というお寺の住職で、第十八世として仕えていました。
しかし、大蓮寺の第十五世の住職が亡くなったとき、後継者がいなかったため、入誉上人が大蓮寺に移って住職になりました。入誉上人は、加賀藩の前田家からも尊敬されるほどの名僧でした。そのため、本堂を再建するときには、前田家から松の木50本を寄付してもらいました。この松の木は、豪姫菩提の縁で贈られたものです。
1994年(平成6年)には、墓所整備を行い、西門を再建しました。西門前には豪姫のレリーフを開眼しました。レリーフとは平らな面に彫刻を施したもの。このレリーフは豪姫の姿を表しています。
同時に墓所内に無縁塔を建立しました。この無縁塔には、身の丈五尺、眉間に紫水晶を埋めた地蔵尊がまつられています。
翌年5月21日には、豪姫が亡くなってから360回目の命日を迎えました。その日には法要が行われました。
法要とは、亡くなった人を供養する儀式です。
この法要では、八丈島から夫・宇喜多秀家と子供たちの遺骨が持ってこられました。遺骨は大蓮寺墓所にある記念碑に納められました。記念碑とは亡くなった人を偲ぶために建てられた石碑です。この記念碑は夫・宇喜多秀家と豪姫の名前が刻まれています。
歴史と信仰が交わる大蓮寺墓所の散策
大蓮寺墓所には、豪姫の野田山墳墓と秀家の八丈島墳墓をそれぞれ模した記念碑(供養塔)が在ります。
その豪姫の供養塔背面には大きな石野家の歴代の墓碑が構えられています。
また儒学者・藤田維正や、金沢の菓子屋の元祖といわれている堂後屋三朗衛門の墓が築かれています。
1994年(平成6年)に墓所整備を行い、西門を再建しました。同時に墓所内に無縁塔も建立しました。この無縁塔には、身の丈五尺、眉間に紫水晶を埋めた地蔵尊がまつられています。
無縁塔とは、親族や縁者がいなくなってしまったお墓を、一か所に集めて供養するために建てられた塔のことです。無縁塔は、仏教の教えに基づいて、有縁(つながりのある)ものだけでなく、無縁(つながりのない)ものもすべて敬うという慈悲の心を表現するものです。無縁塔は、過疎化や少子化、高齢化などによって増加傾向にある無縁墓の問題に対処するためにも重要な役割を果たしています。
無縁塔には、多くの方々の苦しみや願いが込められおり、私たちは毎日この無縁塔にお参りし、念仏を唱えています。無縁塔は、私たちが今快適に暮らせるように土地を開拓してくださった先住者たちへの感謝の気持ちを伝える大切な行いです。無縁塔を見かけたら、ぜひ手を合わせてご供養してみてください。
また墓所には南無延命地蔵尊が在ります。南無延命地蔵尊とは地蔵菩薩の一つの呼称で、寿命を延ばし、福利を与える面を特に強調した呼称です。地蔵菩薩は生まれてくる子を加護するとされますが、延命地蔵経の説により、短命の難をもまぬがれさせるものとされています。
南無延命地蔵尊の横には力石(ちからいし)が在ります。チカラ試しに用いられた大きな石で、江戸から広まり、明治から昭和初期まで力石を用いた力試しが盛んに行われていました。磐持石(ばんもちいし)とも呼ばます。大蓮寺の力石は県内某大社の祭事で使用されていました。
豪姫と大蓮寺
豪姫は郷里金沢に戻ったとは言え、本来は徳川家に背いた宇喜多籍の婦人であります。しかも徳川家に臣従する前田家としては、縁の切れた宇喜多家籍の婦人にこれ以上係るのは憚られました。
そして前田家の宗旨は曹洞宗ですが、宇喜多家は浄土宗という宗教上の違いがあり、豪姫の埋葬をめぐって何処で誰が葬祭するか宙に迷いました。そんな時即座に助け船を出したのが大蓮寺住職の寳譽上人でした。大蓮寺の第三世で正確には三蓮社寳譽上人叶童大和尚という名僧でした。葬儀は上人が浄土宗で執り行い、宇喜多家の名誉を守りました。これが縁となって、ご回向は代々大蓮寺の受持ちとされて今日に及んでいます。
豪姫の葬儀は、宇喜多氏の家臣であった中村刑部や一色主膳ら多くの有縁の方によって、浄土宗大蓮寺で執り行われました。
墓所は金沢市の野田山墓地にあります。前田家代々の藩主達の眠る墓碑に接しており、利長夫妻の墓の後ろに道を隔てて豪姫の墓が凛然と建っています。墓は雄大な五輪塔ですが周囲は玉垣もなく物侘しさも漂います。
豪姫が生き別れた秀家公と息子二人(秀高・秀継)の無事を祈った念持仏の聖観音(天文6年・1537作)がまつられています。
念持仏とは、信者が常に身につけて祈りを捧げる仏像です。聖観音は、慈悲深く苦しむ者を救う仏。豪姫は、聖観音に秀家公と息子二人の安全を願いました。中村家から納められた大蓮寺の寺宝です。
豪姫命日法要
「豪姫命日法要」とは、前田利家の四女で宇喜多秀家の正室であった豪姫の命日(5月23日)に行われる法要です。
豪姫は関ヶ原の戦いで西軍に属した秀家と別れ、金沢に住みました。寛永11年(1634年)に亡くなり、浄土宗の大蓮寺で葬儀が行われました。
その後、大蓮寺は豪姫の菩提寺となり、毎年命日には豪姫の徳を偲び、お念仏を唱える法要を営んでいます。
豪姫の墓所は、金沢市の野田山墓地にある前田家墓所にあります。
大蓮寺には秀家公と豪姫の供養塔があります。
秀家は八丈島に流罪となり、明暦元年(1655年)に亡くなりました。
秀家の墓所は、八丈島中道にある浄土宗宗福寺と八丈島稲葉墓地にあります。
豪姫と秀家は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の歴史の中で、別々の道を歩みましたが、お念仏を通じて結ばれた夫婦です。
大蓮寺では、「豪姫命日法要」を通して、その悲しくも美しい物語を伝えています。
豪姫が狐(きつね)に憑かれた事件
秀吉が日本中の狐を狩ると脅した理由
豪姫は姉のまあに似て、あまり健康ではありませんでした。
文禄4年(1595年)、病弱で出産の度に大病にかかっていた豪姫ですが、狐が憑いたのが原因だと言われました。
養父・秀吉は稲荷大明神宛に手紙を書き、日本中の狐を狩ってしまうと脅迫しました。
この時は、内侍所御神楽(宮中で行われる神楽の一種)が奏され、実父の前田利家も名刀”三池伝太”の威力で狐を落としたということです。
この事件は、当時の人々が信仰や迷信に基づいて行動していたことや、秀吉が豪姫の健康を心配し、豪姫を救おうとしたことを示しています。
狐に取り憑かれたら、なぜ稲荷大明神に手紙を送るのか?
それは稲荷神と狐の関係に由来します。
稲荷神は、穀物や食物の神である宇迦之御魂神と同一視されており、その別名である御饌津神(みけつのかみ)に「三狐」の漢字を当てたことから、狐は稲荷神の眷属(けんぞく:神に仕える動物や神格を指す)や神使とされるようになりました。
また、仏教系の稲荷神は、日本土着の信仰と仏教が混ざった神仏習合思想において生まれたもので、もとは仏教の女神である荼枳尼天(だきにてん)が、「お稲荷様」と一つになった姿です。
荼枳尼天がまたがる動物は白狐とされたため、眷属として扱われています。
したがって、狐に取り憑かれたら稲荷大明神に手紙を送ることは「稲荷神の眷属である狐を制御することができる」という考えから来ていると考えられます。
ちなみに名刀三池伝太とは、筑後国の刀工である三池光世の作品のこと。
三池光世の作品は、身幅が広く豪壮で切れ味が鋭いと評され、天皇や将軍家、大名などに重宝されました。三池伝太の中でも特に有名なものは「大典太光世」と呼ばれる太刀で、天下五剣の一つに数えられる名刀です。この太刀は、前田育徳会が保存・管理し、国宝に指定されています。
華やかさと才気があった豪姫
豪姫は天下人秀吉の寵愛を一身に受けて育っただけに、その華やかさも才気も充分に持っていました。
しかし慶長3年の正月から相当重い病気を患い、それは天然痘だったようです。
醍醐三宝院の義演にしばしば祈祷を依頼していたそうで、豪姫が「醍醐の花見」に参加しなかったのはこのためだったとされています。
秀吉が死の床にあった際も豪姫の病状は良い状態ではなく、秀吉は重体をおして病床から豪姫を見舞う手紙を書き、
「苦しい身体をだましだまし書いた手紙だから、元気な時の一万通にも当たるのだよ」
と、優しく呼び掛けて励ましました。
幸い豪姫は完治しましたが、秀吉は帰らぬ人となりました。